ふたしかなもの|たしかなこと
高井 康充

「私たちにとってすべての事物があまりにも確かに、そしてリアルに見えすぎていることにこそ、
色々な問題があるように思われる」
丸山圭三郎『生命と過剰』より*1

写真技術が発明されて180 年もの歳月が経ちますが*2、今日ほど写真が量産される時代はありませんでした。今まさにこのテキストをしたためる間にも、どれほどの写真が生み出されているのでしょうか。その膨大さに想像をめぐらす暇はありませんが、その無造作に積み上げられた集積のなかから、僕はたった一枚の写真作品を拾い上げたのでした。
 近藤央希さんの作品は、かろうじて被写体が判別できる程度のおぼろげな光景を僕たちに提示しています。瑞々しい新緑の隙間から木漏れ日が降り注ぎ、彼は、私は、あるいはあなたは、木立の中で少しだけ目をそばめながら、そのまばゆい陽光を見上げています。いつ・どこだったのかは思い出せないまでも、あなたがかつてしたであろう体験を、この写真に重ね合わせることができるのではないでしょうか。しかし、この作品は僕たちの馴染みのある光景のようで、どうやら僕たちが思い起こした風景とは少しばかり違っているみたいです。そこには、目でとらえることのできない無数の光の明滅をみてとることができるからです。
ここに呼び覚まされるのは、枝葉が風になびき、陽光がキラキラと目に入り込んでくるあの感覚です。木や光の細やかな動きが、そして視覚的なものに限らず、頬をなでる涼しげな風や葉っぱの擦れる音、新緑の若い香りもふと湧き上がってくるように思えてなりません。まるでその場の緩やかな「時」がいまだこの写真のなかで流れているようです。写真が瞬間を切り取ると言われる一方で、近藤さんのそれは実に動的=映像的だと僕が考えるのは、そうした理由からなのです。
 彼はカメラがとらえた光をそのまま再現するのではなく、 作品によって程度の差こそあれ持ち帰った撮影データにプログラムを加えることでイメージを作り出しています。この過程は、彼が出会った風景や被写体との親密な対話から得られたリアリティを、その場から離れてもなお吟味し、昇華し、成熟させようとする試みなのです。
 写真や映像を含むあらゆるイメージがリアルタイムで氾濫する今日において、彼の実践はその時風に逆らうのには十分なほどの遅さを内包しています。しかし、この緩慢なプロセスを経て生まれた作品は、いたずらに時間を費やした結果などではなく、彼自身が全身で感じたその場の体験で満たされたイメージになっています。それは、「みたもの」に忠実であることよりも、「そこにいた」ことに誠実でありたいと願う、彼なりの世界への真摯な態度の表れなのだと僕は思います。
 刻々と過ぎていく時間のなかで見過ごしてしまう物事や、今は亡きもの、消えてしまいそうな淡い感覚、言葉にならない感情。写真は、そうしたほんの一握りの不確かなものを確かなこととして留めることができるメディアなのだと思います。あの日以来、僕たちの暮らしが、波に崩れる砂城のように頼りなく、かつて誇らしく聳えたあの塔ほど確かなものでなかったことを知ることとなりました。それでもなお僕たちは、指の隙間からこぼれ落ちる砂のように幽かな断片を拠り所にしながら、これからも生きていかなければなりません。
近藤さんの誠実さも同じく頼りなく、そして不確かなものではありますが、彼が作品を通して伝えようとする「たしかなこと」は、僕たちにとってささやかな道しるべになるのかもしれません。

*1. 丸山圭三郎『生命と過剰』, 河出書房新社, 1989 年, p.13
*2. ダゲールが開発したダゲレオタイプをフランス学士院で発表したのが1839 年でした。